そもそも、日本国の国のクニの発声は、狗奴(クヌ、クナ、クコ)から来ています。
狗とは犬の事で、縄文人の特徴として、声を発するためです。
なぜ声を発するのかは、文字通り、言葉による言葉遣いとして、隼(速)神(天使、八百万神)を呼ぶためです。
卑弥弓呼(ヒコミコ)が日子でなく弓呼でありますのもそのためです。
奴は龍を示しています。
ここでの龍は、サ迦具土が使っている青井龍などの、皆さま方がご存じの龍ではなく、籠という竹(成長、現れ)が取れて、籠→龍という事です。
映画でご説明いたしますと、竹とは映像の事で、竹でない何か、映像でない何かが、スクリーン(白神の王→皇)という事です。
ここで、実体は、スクリーンと、スクリーンに光を当てている映写機の神のみで、映像は非実体です。
スクリーン(鏡)に反射して映る人(日足、言延びの影)が私の実体ではなく、反射しているスクリーンが私の実体として、私たちの祖先は、髷(熊襲狗奴が広めたもの)や曲玉を誇り(目)といたしました。
曲玉が勾でありますのも、神(映写機)の光である米をムゲンに光に曲げ変えるからです。
その米(マンナ、神の光)からI(私、我)が落とされ、曲げられるので光という字になりますし、その様子が菊という事です。
鏡は、カミのすき間(すは言吹きの寿)に中主として我が在るわけですが、うちゅうにも、中主としてちゅら(私)が在ります。
寿や参拝、1月11日の鏡降ろしの暗示は、映写機とスクリーンと映像の三津という事です。
写真は、熊本市近津の竹を取る龍神社です。
竹取物語の作者の一人である空海は、近くの竹崎(肥州高野山)で修業をしています。
いつも載せています龍目は、東海龍王の石とも伝承されます、狗奴の子孫の、坂口の実家に伝えられるものです。
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